37歳、年収400万の会社員、家を買う

37歳、妻と子供二人と幸せな家庭に突如訪れた家を買うという一大イベント!買う前からその後についてよかったこと、困ったこと、素直に思ったことをお伝えします。以前は格安スマホのブログでしたが約4年ぶりに復活。

カンボジアで何があったのか


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1970年代、今からたったの40年前カンボジアで大虐殺が行われた。

ポル・ポト率いるクメール・ルージュによって300万人ものカンボジア国民が殺されたのだ。

 

私は1984年生まれなので、自分が生まれるほんの10年前にこのようなことがカンボジアで起こっていたなんてあまりにも衝撃的だった。

カンボジアはといえばアンコールワットが有名だが、世界的に見ても影響力のある国ではないので世界史の授業で教わることもほとんどなければ、何かきっかけがない限りこのことについて日本人が知ることはない。

自分も会社とカンボジアのつながりから偶然このことを知ったのだがぜひ少しでも多くの人に知ってもらい、カンボジアについて考えてもらいたいと思う。

 

人々から歓迎されていたポルポト政権

1976年、ポルポト率いるクメールルージュが前政権を倒し政権を手に入れた際、民衆はポルポト政権を歓迎していた。

なぜならポルポト政権は、民主主義による格差を否定し農本主義を掲げていたからだ。

農本主義とはお金に惑わされずに、農業を大事にしみんなで平等に暮らしていこうという考えだ。

前政権の腐敗などもあり平等を掲げる新政権に特に農民たちは支持した。

 

ポルポトが政権を手に入れた時から虐殺を考えていたかどうかはわからない。

高すぎる理想のためやむなく虐殺という道を歩んでしまったのかもしれない。

しかし、このことが今後のカンボジアの歴史を大きく歪ませてしまうことになる。

 

 

大虐殺の始まり

当時、現在のカンボジアの首都でもあるプノンペンは1970年に起こった内戦によって農村から逃れてきた人々で溢れていた。

戦争により農地は荒らされ、農民はいない。

そのためカンボジアは食料危機に陥っており、元々非常に農作物が豊富で農地が多く輸出額も非常に多い国だったが食料の大半を輸入で賄わなくてはならなくなっていた。

これをどうにかするためにポルポトは人々を農村に帰し、農業を行わせた。

食料の問題だけでなくポルポト農本主義を掲げていたことも理由の一つだ

 

しかしポルポトの考える農本主義は一般的な農本主義と異なり、もっと偏った農本主義でお金・学問や教育などすべて捨て原始的な生活を送ろうというものであった。

人々を農村へ向かわせる中で、非常に猜疑心と警戒心が強いポルポトは反乱を恐れその中から学者やお金を持った人、技術者は農村へ向かわせずプノンペンへ集め処刑した。

処刑されることがばれてはいけないため農村へ向かわせる途中、文字が読める人などを政府の要職を用意するなど騙してプノンペンへ送った。

もちろん彼らはそのまま収容所へ送られる。

 

もちろん学者であるとか、お金があるとか、そんな理由で人を処刑することはできない。

そこでそういった人々は収容所に捉えられ、拷問を受けて、身に覚えのない罪を言わされ殺されるのだ。

 

プノンペンにS21と呼ばれた収容所がある。

今は「トゥールスレン収容所」と呼ばれている。当時収容所の存在は極秘だったため正式な名称はなくS21と呼ばれていたそうだ。

元は学校であった建物が学校や教育は不要とするポルポトの政権下では収容所として使われたのである。

ここに学者、お金を持った人、技術者などが集められ過酷な環境の中拷問が行われた。

 

今ではトゥールスレン博物館として、当時の歴史を残し今に伝えている。

プノンペンへ行くことがあればぜひ一度トゥールスレン博物館に足を運んで当時の悲惨さを肌で感じてほしい。

こんな文章を読むより何倍も伝わるはずだ。

 

 

 どんなことが起こっていたのか

トゥールスレン収容所はプノンペンにいくつもあった収容所の一つで特に悲惨な環境であった。

収容所に送り込まれるとまずは尋問が始まる。

まず自分がどんな罪を犯したか聞かれるのだが、皆身に覚えのない罪で捕まっているため白状のしようがない。

すると拷問が行われる。

拷問は肉体的な拷問が中心で電流を流されたり、暴力を受けたりするわけだが殺してしまえば看守側の責任になってしまうので絶対に殺さずに痛めつけられる。

 

収容された環境も劣悪なもので、1畳ほどのレンガの独房に鎖で繋がれ、食べ物は死なない量、排泄物は横に置いてある箱の中にするという人間の誇りも削がれるような環境であった。

 

収容所の目的は自白だけではない。

家族や親せき、知人がどこに隠れているかなど仲間の情報も聞き出そうとしてくる。

ポルポトは反乱の恐れがある人を徹底的に排除した。

学者やお金持ち、技術者など頭のいい人間はいずれ反乱を起こす可能性があるからである。

もちろん本人だけでなく、家族や親せき・知人などまで殺していった。

小さな子どもがいればその子どもも一緒に容赦なく殺した。

 

ポルポトの徹底さは容赦ない虐殺だけではない。

ポルポト政権下で実際に人を捕えたり、監視したり、拷問をかけたり、処刑を行っていたのは少年たちであった。

彼らは田舎の方から連れてこられた。

もちろん学もなく、何が正しく何が悪いかを判断することもできない。

そんな彼らを洗脳し、いい世界を作るために行っていると思い込ませた。

純粋な彼らは、ただ純粋に、罪の意識を感じることもなくその指示に従った。

 

罪もない人々を捕え、拷問をかけ、最終的には殺す。

トゥールスレン収容所に送り込まれた人々は、拷問に堪え切れす罪を認め処刑場に送られた。

それがキリングフィールドである。

 

 

収容所から車で約30分のプノンペン郊外にあるキリングフィールド。

ここで多くの人々が殺された。

最初のころは通常の処刑場で銃などを使い処刑を行っていた。

しかし処刑する人数が多すぎた結果、農具で頭を砕くだけという処刑方法に変わった。

銃で脳天を貫かれればほぼ100%一瞬で死ぬことができるが頭を砕くだけでは一瞬で死ぬことができずさらに苦しむことになった。

 

親が殺されれば、その子どもがいつか復讐を考える可能性があるので生まれたばかりの子どもであっても徹底的に殺す。

キリングフィールド内にあるキリングツリーには小さな子どもの頭を打ち付けて殺したそうです。

他にもキリングフィールドでの残虐な行為か上げればキリがなく聞けば聞くほど陰鬱な気持ちになります。 

 

当時カンボジアの国民は虐殺だけで亡くなったわけではない。

農村へ送り込まれた人々の多くも亡くなっている。

まず彼らが送られた土地は自分の出身地でもなんでもない見知らぬ場所だ。

鉄道や飛行機で行けるわけがない。皆、強制的に歩いて向かわされた。

 

途中食事の時間どころか食べるものも休む暇もない。

食べるものがないので道端の草を食べ、虫やカエルを食べ、ただひたすら歩く。

病気や疲れで遅れれば見殺しにされる。

見殺しにしなければ自分が殺されるからだ。

 

長い移動の末、目的地にたどり着いたと思ったらまた別の場所へ送られるなんてこともあったようだ。

このつらい大移動によっても多くの人々が亡くなっていった。

 

人々が農村へ向かったことによってカンボジアの食糧事情はどうなったかというと、全く上手くいかなかった。

なぜなら農業を行うための知識を持った人々は捕えられ殺されてしまったからだ。

皆見知らぬ土地で知らない作物を作らされるので上手くいくわけがなかったのだ。

結局食料は増えず人々は飢えていった。

 

虐殺と飢饉

1975年から1979年という短いポルポト政権であったがその4年間足らずの間にカンボジア国民70万~300万人が亡くなった。

随分と誤差があるが当時の資料などがほぼ残っておらず実際はもっと多いのかもしれない。

 

 

その後のカンボジア

1979年にポルポト政権は倒されたが、ポルポト始め上層部は他国逃げ生き延びた。

1998年にポルポトが死に、その他上層部は現在も裁判にかけられている。

当時の情報が少なく裁判は思うように進んでいない。

 

第二次世界大戦やその後の内戦、ポルポト政権と長きにわたるカンボジアの不幸はようやく終わった。

しかし、これでカンボジアがまっすぐに進んでいけるわけではない。

 

ポルポト時代に知識階級が殺されてしまったため、カンボジアの復興は非常に時間がかかる。

例えば学校。

学校はあっても教える人がいない。

一応、教師はいても教え方を知らないため、ただただ暗記させるだけ。

 

プノンペンの街並みを見るとこれが強く現れていて、誰も支持できる人がいない状態で都市開発を行ったため町中の電線はぐちゃぐちゃになっている。

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農業、輸送、産業、まだまだいろんなものが整っておらす農作物もカンボジアで買うよりベトナムから買った方が安いという状況が生まれている。

 

今のカンボジアの若者はとても純粋だ。

自分が出会った20代の若者でさえしゃべってると10代前半の純粋な目の輝きをしている。

いずれ彼らがもっと大人になってカンボジアをより良いものにしてくれるだろう。

でも彼らを少しでも支援して自立の手助けになればと思う。

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